金子みすゞ

金子みすゞについて調べている。

いくつか検索して、見つけたもので、もう一度読みたいものをメモしておく。

みすゞのさみしさ http://www.jtw.zaq.ne.jp/kamifu-sen/misuzuai.html
烏兎の庭 http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto03/diary/d0905.html
喜多圭介のブログ http://blog.goo.ne.jp/gki1ta2oo/e/1013820d8ff7e29c33743326b7981134

私は「こだまでしょうか」の詩を聞いて、「怖い」と思いました。機会があれば、それについて書くかも。

経済について

つい先日、だけど、もう昔のことのように思えるが、Facebookが株式公開された。詳しくは興味がないので、知らないが、高値をつけ、そして公開と同時に値下がりしたのだという。

IT企業が、さして資産がないにも関わらず、お金を集めることができるのはなぜか。という問いには、いくつもの応えがある。一つは未来がある。物理的な資産はないが、大勢の人が使っている、有名だ、という資産がある。などなど。

でも、1番の理由は、お金が余っているからだ、と私は思う(し、また他の人もそういっている)。

余っている、という言い方は、ちょっと分かりにくい。使い道がないお金がたくさんある。ともいえる。もう少し、言い換えると、こうすれば儲かるという話がない、ということだ。

たとえ話をしよう。
ここに1万人の町があるとする。ここにはスーパーマーケットがない。隣町にはあるので、みんなそこへ買いにいっている。この町に、スーパーマーケットを建てれば、確実に儲かることは、誰の目にも明らかだ。そして、この町の住人達もまた、それを望んでいる。遠くまで買い出しにいかなくてすむからだ。

だからスーパーを建てるといえば、お金が集まる。1万人の町に1件しかスーパーがないとなれば、どれくらいの売り上げか推測するのも簡単だ。そうして、スーパーが建ち、儲けが出る。お金を出した人には、何年かすれば、お金が増えて戻ってくる。

お金を出した人だけが、喜ぶわけではない。町の住人たちも喜ぶ。便利になり、豊かになり、そして、スーパーの雇用も生み出される。雇用が生まれるということは、お金がこの町に流れこむということでもある。

スーパーをつくって儲けたのは、お金持ちだろうか。そうとも限らない。町の人たちは、当座必要ではないお金を銀行に預ける。銀行は、町の人々から預かった、まとまったお金を、スーパーに投資する。スーパーの利益は、銀行の利益となり、利息となって町の人に戻っていく。そして、利息によって増えたお金は、また銀行に集まり、銀行は新たなスーパーを建てる。するとまた儲かる。

このような幸福な状況が、70年代までの日本だった。スーパーだけでなく、電化製品とか、車とか、住宅とか、そういったものが、そうだったのだ。儲け話に困ることは、なかった(細かくみればそうではないでしょうが)。

80年代になると、スーパーのない町がなくなった。全国で儲けがでそうなところには、もうすでにスーパーが立っていた。そこで2店目、3店目を作りはじめた。銀行にはお金があったので、建てること自体は雑作のないことだった。

しかし、さすがに4店目、5店目を作るわけにはいかない、とだれもが思いはじめた。しかし、いままでに儲けたお金はある。銀行は利息を払わなくてはいけない。では、どこで儲けるか? お金行き場を失って、株と不動産に集中した。80年代後半、こうしてバブルが始まった。

Facebookだけでなく、Yahooも Googleも、株式公開時に話題になった。行き場を失ったお金が、わらをもすがる気持ちで(というと言い過ぎか)、人気IT企業に集中したのだ。ようするにバブルなわけだ。

「さすがに4店目、5店目を作るわけにはいかない」と思いながらも、建てないわけにもいかない、という状況もあった。建てないと建設会社が儲からないし、スーパーも利益が頭打ちだ。仕方がないので、出店する。しかし、そこには既にライバルが群居している。その町の人口は、かつての1万人から、少し増えたが、少子化もあって減りはじめている。ただでさえ、利益の確保が難しいところに、新たな参入するとなれば、どのような手が考えられるか。

効率化することだ。

効率化とはなにか。経費を削減することである。
既存のライバルは、10人でやっている仕事を、新規店は3人でこなすようにする。すると、利益は増える。
既存のライバルは、豪華な建物に、贅沢な内装をしているが、こちらは見た目はともかく安い建材を使い、工期も短くする。すると、利益は増える。
既存のライバルは、ちょっとしか売れないものも、沢山、在庫しているが、新規店は、売れるものだけを大量に置く。すると、利益は増える。

そして、既存のライバルは消え、もっと効率化した新規のライバルが現れる。

しかし、町の人々はどうだろう。雇用は減り、日本中どこにいっても同じ風景と、同じ商品ばかりになっていく。
銀行は利益を上げられずに、利息はなくなってしまった。むしろ、お金を引き出すと手数料をとられてしまう。

お金は、あるところにはある。なぜなら、お金の総量は一定だからだ(基本的に)。
貧乏な人が増えたということは、お金持ちが増えたか、一部のお金持ちがさらに沢山お金を持っているかだ。
なぜ、そうなっているのか。

金は天下の回りものという。社会を人間に例えるなら、お金とは血液だ。どこかに溜まっているのは、不健康の証しである。

じゃあどうするんだ。
とにかく、無理矢理にでも、流れるようにするしかない。具体的にというと、それはまだ考え中なのでした。

今日は土曜日なのに、かお先生も仕事で、私も仕事、しかし、学校は休みという状況でした。中学のちーは部活、小5のみーと、小2のさとでお留守番となりました。

用意のいい、かお先生、サンドイッチとコーンスープを昼食に用意して出勤しました。しかも、子供たちには調理するスキル習得のため、パンはそのままで、ハムも切っておらず、スープはお湯にとくだけの粉です。さすがです。子供たちは自分でいろいろしなくてはなりません。いいことです。決して手抜きではありません。
上の小うるさいちーがいなくなった、みーはパジャマのズボンもそのままで、さとに命令したり、叱ったりしています。挙げ句の果てに、布団のうえに、さとの机の上のものがぶちまけられています。
埃だらけになるじゃないかと怒ったら、さらに泥だんごが落ちて砕けたことを白状する始末。
掃除機でそうじしたり、布団をたたんだり、その上、みーは朝ごはんの途中……。まだ、味噌汁が飲みかけのまま。
怒ってもあれやこれやと言い返して来ます。パジャマのズボンも、これはパジャマじゃないと言い張り、履き替えないみー。
「そのまま、それ、はいて外にいけるんだな」
といったら、
「行けるにきまってるじゃん。ズボンなんだから」
という始末。
まったく手におえません。

喧嘩して、泣いたり、罵りあったりしている、みーとさとだが、気がつくと仲良くしてたり、互いの肩をもったり。なんだかんだいって、「さとさと」とみーが呼ぶと、ついて行く、さと。

あんだけ泣かされて懲りないのか、さと。
あれだけ文句いっといて、一緒に遊ぶのか、みー。

といいつつ、私は洗濯物を干したり、いろいろする。

そうこうするうちに時間がきた。机の片付けをすると言って、二人分の教科書やらおもちゃやらガラクタを部屋中に拡げたふたりをあとにして、家を出た。さて、どうなったことやら。

キーボード付きカバー Air Slide Bluetooth Keyboard

最近、職場が変わったこともあり、電車で座れなくなったり、逆に電波はずっと入るようになったり、Twitterを見るようになったりして、微妙に携帯ネット関係の環境が変わって、ポメラを使う機会がへってきた。ポメラを使うにはやはり机があるか、膝の上に乗せられるような硬いカバンとかがないと使えない。ずっともちあるいていたのだが、不満がつのっていて、とうとう買ってしまった。

サイズ M Design iPhone4/4S用 AIR SLIDE KEYBOARD CASE2 Bluetooth接続キーボード ブラック MDKC-IP4S-BK

サイズ M Design iPhone4/4S用 AIR SLIDE KEYBOARD CASE2 Bluetooth接続キーボード ブラック MDKC-IP4S-BK

iPhoneをキーボード付きにしてしまうケースだ。W-ZERO3みたいになる。

半分おもちゃのつもりだったけど、思ったより薄くて、持ちやすく、 結構使える。いま、この文章もこのキーボード付きカバーで、電車で書いている。

使用感覚は、横置きにしてソフトウェアキーボードを使うのと、たいしてかわりがないのだけど、画面が広くなり、キーを押したときにクリック感があるので、ずっと快適に文章がうてる。カーソルキーもあり、コマンドキーやセレクト(シフトキー)とあわせて、範囲をしていして、コピー&ペーストもキーボードの操作感そのままで使えるので、イライラしないで使えている。

iPhoneフリック入力も練習してみたが、いまいち身につかず、時間がかかった。手書き入力のメモアプリも試したが、一文書くだけで疲れてしまった。

それにくらべて、こいつはいい。どんどん書ける。

調子に乗って、ここ最近のエントリーは全部、iPhone+キーボードで書いている。

ま、どんどん書いているのは、ほんとに便利なのか、新しいものが楽しくてめんどくさいのが気にならないのか、区別がつかないですが、ケースとしても違和感がないので、しばらくこれで日記を更新していきます。

[子供たち]赤毛のアン(アニメ版)

ふとしたきっかけで、第一話を観て、そのまま我が家の連続テレビ小説的な状態になって、はや2週間。15話まで観終わった。だいたい一日一話観ている。テレビアニメを最近まったく観ていないので、どんなものかなと思ったが、子供たちは食らいつくように観ている。
もともとが、週1回1年間放映されたものだから、話の展開はゆっくりで、大人の目からみると手抜きと言えなくもない止め絵が何秒も続いたりするのだが、背景が素晴らしく、止め絵でも、ほーっと観ていられるのだ。映画とは全く違うテンポの物語時間がとてもここちいい。

子供たちと近所のレンタル屋に100円のDVD借りにいくのも結構楽しい。この間は、突然の大雨で店に足止めを食ったりしたが、DVD観ながら雨宿りして、結局濡れずにすんだりした。

しかし、残念なのは、カナダで制作された実写版の赤毛のアンがレンタルにないことだ。もう20年も昔の映画だけど、こちらもいい映画だったので、観たいんだけどな。ボックスセットとかは販売されてるんだけど、レンタルにはならないようです。

赤毛のアン DVD-BOX

赤毛のアン DVD-BOX

赤毛のアン DVDメモリアルボックス (再プレス)

赤毛のアン DVDメモリアルボックス (再プレス)

わたしが子どもだったころ


みーにせがまれて、ケストナーの「わたしが子どもだったころ岩波書店を読み聞かせした。

以前に「点子ちゃんとアントン」や「エーミールと探偵たち」を読んだときには、どうもわたしの好みに合わないと思っていたのだけれど、この「わたしが子どもだったころ」は面白かった。

といっても、読んだのは途中の2章分ぐらいだけれど。

内容は、お話というよりもエッセイに近い。子供のころを回想したものだけれど、語り口はユーモアがあり、独特な冷めた視線で大人たちや自分自身をみつめているのが、面白く、そしてケストナーの境遇と、子どもながらのケナゲな姿が心に響く。

わたしが読んだ途中の章で、「結婚する」と嘘をつく女の人が出てくる。その嘘によって、ケストナーの母親は、損害を被るのだが、ケストナーの書き方は、ある種憐れみを持って、その女の人の気持ちに寄り添うように書いてある。書き方次第では、嘘つきのひどい女だといっても間違いではないのに、だ。

この「わたしが子どもだったころ」は、「点子ちゃん」や「エーミール」よりも、何十年かあとに書かれている。そのことも影響しているのか、わたしはケストナーの童話にはいまいち乗れなかったユーモアも、この自伝的エッセイでは楽しく読むことができた。

しかし、これは子ども向けなのだろうか? 大人が読んでも面白いと思うが、というか大人向けの気がする。

これまでと同じことが、これからも続くわけじゃないのだから、考え方を変えよう

連続ツイートというのをやってみたので、それをこちらにも貼っておきます。

かなり疲れました。ただ、これはこれで、ブログとは違う緊張感と、大きなまとまりを気にしないでいいという特徴があるなあと思いました。まだまだ甘い考えではありますが、とりあえず普段もやもやと考えていたことを言葉にできたので、すっきりしました。

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「これまでと同じことが、これからも続くわけじゃない」ずいぶん昔から分かっていたはずだけど、日本の人口はずっと減っていく。減っていくのだから、使用するエネルギーも原則として減っていく。もし今足りないとしても、数年後には余っているという事態になっている可能性はとても高い。

道路はすみずみまであり、家は空き家もあり、テレビも冷蔵庫も車も各家庭どころか各個人にまで普及し、パソコンも携帯もこれ以上伸びるとしても限定的。物を売る店は有り余り、売れなくて困っている。新しく鉄道を造っても、乗客はすでに総体として減りはじめている。必要とされるものが、ない。作るべきものが、ない。これまで作って、運んで、売って、買ってというお金のサイクルが、うまくいかなくなってきている。

「仕事がない」と皆が言う。原発を誘致し、再稼働を願う自治体も、原発がなければ仕事もお金もなくなってしまうのを恐れている。でも、私は思う。仕事がないなら、遊べばいいのではないか。しかし、仕事もしないで遊んでばかりいる人間に世間の目は厳しい。そして、お金がないと暮らしていけない。

機械やコンピュータはなんのために作られたのか。面倒な仕事を人間のかわりにやってもらうためではなかったか。そして、それはかなり成功を納めた。面倒な仕事はしなくていい。たとえば録音された音楽は、もうプレスしたり運んだり、倉庫に在庫する必要はない。ネットにつながったサーバがあればいい。

文章も音楽も映像も情報については、もはやなにかの物体に印刷したりプレスしたり、しなくていい。トラックで運ばなくていい。店でレジをうたなくてもいい。機械とネットとコンピュータが人間をその労働から解放したのだ。だったら、その分遊べばいいじゃないか。自由な時間を増やすべきではないのか。

どうして機械を発明して、仕事を肩代わりしてもらったのに、「仕事がない」といって困っているのか。大きな矛盾ではないのか。では、仕事を機械ではなく、もう一度、手作業に戻すのか。そうすれば仕事は増える。しかし、そんなことを望んでいる人は少数だろう。ならば「仕事がない」ことを肯定すべきだ。

「仕事がない」ことを肯定するとは、仕事をしていない人が、暮らしていけるようにすることだ。つまり、「働かざるもの食うべからず」という発想を変えるということだ。働かないで生きている人々を、むしろ多くしていく。あるいは、一人一人の労働時間を減していくということだ。

電車に乗るとテレビ番組の広告をよく見かける。こんな奇妙なものがまかり通る社会とはいったいなんなのだろうといつも思う。民放のテレビというのは広告である。たくさんの人がテレビを観たいと思って観るから、そこに広告の効果がある。その広告を観てくれと広告を出している。

たとえば、電鉄会社が電車に乗ってくださいという広告をテレビで流し、テレビ局が番組を観てくださいという広告を電車に張り出すとすると、見事なマッチポンプが出来上がる。電鉄会社はテレビ局に広告費を払い、その広告費から、テレビ局は番組のための広告費を電鉄会社に払う。そして、その収入で電鉄会社はまた広告をテレビ局に……以下永遠に続く

そもそものお金の出所は、電車の運賃だ。であるならば、マッチポンプなどやめてしまえば、運賃は安くなるはずだ。しかし、もしこのマッチポンプ的状況をやめてしまえば、広告に携わる人々は失業してしまう。これはテレビだけの話ではない。名だたるインターネットのサービスは、その多くが広告を収入源としている。

CO2排出権を個人にも認めたらどうか。そうすれば、ホームレスの人たちは最もCO2を排出しない生活をしているのだから、その排出権を企業やCO2を沢山排出したい個人に売ればいいのだ。これで生活保護の問題は解決しないだろうか?

私の仕事もそうだが、生活に絶対必要とは思えないものに関わる仕事をしている人間よりも、ひきこもりの人の方が、環境にはやさしいはずだ。だったら、ひきこもりの人にお金を渡すべきではないか。エネルギーを浪費して、生活に不必要なものを作ったり売ったりしているよりも、なにもしないことの方が価値があると見なすべきではないか。

原発についても、おなじことだ。再稼働したいのは仕事をしないと生活が成り立たないからだ。むしろ、原発を使わない生活に価値を置き、仕事をしないことに価値を見いだすようになれば、必然的に原発はいらなくなる。

逆にいえば、仕事をしなければ生活できないというような社会の仕組みのままでいれば、たとえ原発がなくなっても、また同じようなものが出来上がってしまう。もうそんな時代じゃない。我々は、いままでと同じようなことを続けていけるわけではない。

もちろん、誰もが働かない社会はありえない。では、働く人と働かない人のバランスをとるか。そこが、発展する時代ではなく、メンテナンスする時代においての、我々の考えなければならない問題だと、私は思う。