これまでと同じことが、これからも続くわけじゃないのだから、考え方を変えよう

連続ツイートというのをやってみたので、それをこちらにも貼っておきます。

かなり疲れました。ただ、これはこれで、ブログとは違う緊張感と、大きなまとまりを気にしないでいいという特徴があるなあと思いました。まだまだ甘い考えではありますが、とりあえず普段もやもやと考えていたことを言葉にできたので、すっきりしました。

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「これまでと同じことが、これからも続くわけじゃない」ずいぶん昔から分かっていたはずだけど、日本の人口はずっと減っていく。減っていくのだから、使用するエネルギーも原則として減っていく。もし今足りないとしても、数年後には余っているという事態になっている可能性はとても高い。

道路はすみずみまであり、家は空き家もあり、テレビも冷蔵庫も車も各家庭どころか各個人にまで普及し、パソコンも携帯もこれ以上伸びるとしても限定的。物を売る店は有り余り、売れなくて困っている。新しく鉄道を造っても、乗客はすでに総体として減りはじめている。必要とされるものが、ない。作るべきものが、ない。これまで作って、運んで、売って、買ってというお金のサイクルが、うまくいかなくなってきている。

「仕事がない」と皆が言う。原発を誘致し、再稼働を願う自治体も、原発がなければ仕事もお金もなくなってしまうのを恐れている。でも、私は思う。仕事がないなら、遊べばいいのではないか。しかし、仕事もしないで遊んでばかりいる人間に世間の目は厳しい。そして、お金がないと暮らしていけない。

機械やコンピュータはなんのために作られたのか。面倒な仕事を人間のかわりにやってもらうためではなかったか。そして、それはかなり成功を納めた。面倒な仕事はしなくていい。たとえば録音された音楽は、もうプレスしたり運んだり、倉庫に在庫する必要はない。ネットにつながったサーバがあればいい。

文章も音楽も映像も情報については、もはやなにかの物体に印刷したりプレスしたり、しなくていい。トラックで運ばなくていい。店でレジをうたなくてもいい。機械とネットとコンピュータが人間をその労働から解放したのだ。だったら、その分遊べばいいじゃないか。自由な時間を増やすべきではないのか。

どうして機械を発明して、仕事を肩代わりしてもらったのに、「仕事がない」といって困っているのか。大きな矛盾ではないのか。では、仕事を機械ではなく、もう一度、手作業に戻すのか。そうすれば仕事は増える。しかし、そんなことを望んでいる人は少数だろう。ならば「仕事がない」ことを肯定すべきだ。

「仕事がない」ことを肯定するとは、仕事をしていない人が、暮らしていけるようにすることだ。つまり、「働かざるもの食うべからず」という発想を変えるということだ。働かないで生きている人々を、むしろ多くしていく。あるいは、一人一人の労働時間を減していくということだ。

電車に乗るとテレビ番組の広告をよく見かける。こんな奇妙なものがまかり通る社会とはいったいなんなのだろうといつも思う。民放のテレビというのは広告である。たくさんの人がテレビを観たいと思って観るから、そこに広告の効果がある。その広告を観てくれと広告を出している。

たとえば、電鉄会社が電車に乗ってくださいという広告をテレビで流し、テレビ局が番組を観てくださいという広告を電車に張り出すとすると、見事なマッチポンプが出来上がる。電鉄会社はテレビ局に広告費を払い、その広告費から、テレビ局は番組のための広告費を電鉄会社に払う。そして、その収入で電鉄会社はまた広告をテレビ局に……以下永遠に続く

そもそものお金の出所は、電車の運賃だ。であるならば、マッチポンプなどやめてしまえば、運賃は安くなるはずだ。しかし、もしこのマッチポンプ的状況をやめてしまえば、広告に携わる人々は失業してしまう。これはテレビだけの話ではない。名だたるインターネットのサービスは、その多くが広告を収入源としている。

CO2排出権を個人にも認めたらどうか。そうすれば、ホームレスの人たちは最もCO2を排出しない生活をしているのだから、その排出権を企業やCO2を沢山排出したい個人に売ればいいのだ。これで生活保護の問題は解決しないだろうか?

私の仕事もそうだが、生活に絶対必要とは思えないものに関わる仕事をしている人間よりも、ひきこもりの人の方が、環境にはやさしいはずだ。だったら、ひきこもりの人にお金を渡すべきではないか。エネルギーを浪費して、生活に不必要なものを作ったり売ったりしているよりも、なにもしないことの方が価値があると見なすべきではないか。

原発についても、おなじことだ。再稼働したいのは仕事をしないと生活が成り立たないからだ。むしろ、原発を使わない生活に価値を置き、仕事をしないことに価値を見いだすようになれば、必然的に原発はいらなくなる。

逆にいえば、仕事をしなければ生活できないというような社会の仕組みのままでいれば、たとえ原発がなくなっても、また同じようなものが出来上がってしまう。もうそんな時代じゃない。我々は、いままでと同じようなことを続けていけるわけではない。

もちろん、誰もが働かない社会はありえない。では、働く人と働かない人のバランスをとるか。そこが、発展する時代ではなく、メンテナンスする時代においての、我々の考えなければならない問題だと、私は思う。