Little house by boston bay が、littleになっているというlittleじゃない問題

1年ほど前か、我が家で人気のローラ・インガルス・ワイルダーの大草原シリーズの、お母さんが主人公の続編?というか、まあ、悪くいうと便乗小説があり(「ブルックフィールドの小さな家」)、とはいえ、それも大好きな、ちーが、その本あとがきに、実は、ローラのおばあさんや、ひいおばあさんの話もあり、翻訳はないが、やさしい英語なので、中学生ぐらいでも頑張れば読める等と書いていたのを見つけて、読みたいというので、原書を注文してみた。

Little House by Boston Bay (Little House Prequel)

Little House by Boston Bay (Little House Prequel)

 で、現実的には、未だに本人は読めていないが、中学生になって英語を勉強するモチベーションにはなっているようで、あとがきに、「読める」と書いてくれるのはありがたいものです。英語のまったく読んだことのない中学生だってもちろん頑張れば、読めるというのは嘘ではありません。ただし、すごーく頑張る必要がありますが。

 というわけで、早く読みたいと、ちーは、自分で読めないので、私に読んでくれというわけですが、さすがにそうサラサラと読めるほどの英語力はないので、数ページよんでお茶を濁しておりました。が、今日は、中学生になった、ちーが英語を勉強しているので、(yes,I amとか書いてる)、その隣で、この本を読んでみた。第1章だけだけど。

「土曜日の家族」という章題がついている。で、結構、読めてしまったのだが、これがなかなかよく考えられている。土曜日の家族というのは、主人公シャーロットが夕食の食卓の上を家族になぞらえて、勝手に名付けたもので、

「背が高く、きれいな形をしたcider vineger(ソーダ酢?)の瓶」がお母さん。
「しゃがんだ赤いかっこいい取っ手のついたmolasses(モラッセ糖蜜/シロップ)の水差し型入れ物」がお父さん。
 その間にいる
「中国の皿のゆりかごにいるバターの」あかちゃん。

 のことなわけです。要するに、食卓の調味料セットを、かわいらしく「土曜日の家族」と読んでいるわけです。なぜ土曜日かというと、ごちそうが出るのは土曜日だけなので、この調味料セットも土曜日にしか登場しないわけです。

 この、いかにも、女の子らしい想像を語るところから、話が始まる、少女向けの小説の定番をきちんと踏んでいく展開は、私には好ましいものでした。素朴な暮らしではありますが、なんかシャレてます。
 と、思いきや、今夜の夕食では、戦争でmolassesが手に入らなくなったという。

「今夜まで、戦争はシャーロットの生活と関係のないものでしたが、今ではボストン港のモラッセは、戦争によって取り上げられてしまったのです。とても遠いところで起きたことが、シャーロットの夕食の食卓をすっかり変えてしまう。戦争はそんなことをシャーロットに感じさせました」

怪しい訳だけど、そのようなことが書いてある。モラッセの入れ物がお父さんであることは極めて周到な設定だ。つまり、

戦争が起って、食卓から父が消えるのだ。

ずいぶん面白いじゃないか。と思って、いろいろネットを調べてみたが、この本について日本語で書いているところはほとんどなかった。英語なら、作者本人のブログとかいろいろあったのだが。

で、amazon.comにいってレビューを読んでみた。そこで、え?っていうことが書いてあった。

なんと、大草原の小さな家の一代サーガ本(ローラのお母さんとかおばあさんとか娘とかを主人公にした物語が幾つも出ている)の多くが、2000年代に新しい版になって再出版されたのだが、それが皆、本来のものを短く削った短縮版だというのだ。しかも、前の版は絶版になっていると。

実際に、このLittle House By Boston Bayも、今ある版は160ページだが、昔の版は190ページなのだ。30ページというと2章分まるまる削った感じです。

↓昔の版

Little House by Boston Bay (Little House: the Charlotte Years)

Little House by Boston Bay (Little House: the Charlotte Years)

そして、そのことに作者は怒って、もう続きは書かないといっているらしい。本来なら、この本では5歳のシャーロットが成長して、未来の夫とのロマンスも予定されていたのに!

もちろん私が買ったのは、新しい短い版です。
そんなわけで、このまま読み続けるか、古い版を買うべきか、そこまでするべきなのか、さらにそれを、中学生のちーにどう説明するのか、うーむと考えています。考えずに読めって感じではありますが。

しかし、アマゾンはすごいし、インターネットはすごいな。20年前には予想もできなかったな。たぶん、短くされたことも知らずに、喜んで読んでいたんだろうなあ。

カッコいいこと

もう十年以上前の話だ。

ある雑誌があった。名前を忘れてしまったけれども、今では休刊になっている。仮に「東京ウォーキング」という名前とする(類似の名前の雑誌とは関係ありません;ただ、そういうタイプの雑誌だったということです)。

この「東京ウォーキング」の何月号かが、当時、私の勤めていた本屋の、一番いいところ、店に入ってすぐのところに積まれていた。私がその店に入ったときに、すでにそこにあったと思う。1年ぐらいして、私は雑誌担当になった。店長から、その雑誌が減ったから追加してくれと言われて、電話で追加した。

当時も今も、多くの店で、雑誌は最新号しか置かないものだ。新しい号が出たら、古い号は返品する。その店は狭くて、月刊誌は原則発売日から2週間で返品していた。それ以上置くスペースがなかったからだ。

そんな店で、すでにバックナンバーとなった号を置くのは例外中の例外だし、雑誌の追加注文を出すなんてことをするのもまた、例外だ。しかも、その「東京ウォーキング」という雑誌は、はっきりいって毎号毎号売れ残る、売れない雑誌だった。

なぜ、それがその店で特等席を確保していたか。その雑誌の特集が、「B区」の名所やお店を紹介する特集で、なおかつ、私の店はB区にあったからだ。売れる、と判断して、店長はその雑誌を特等席で売り続けることにしたのだ。

これはすごいことだ。
売れるからといって、すでに何ヶ月か、あるいは1年以上も前の雑誌を特等席に平積みにして、追加する本屋というのはなかなかないはずだ。とはいえ、その雑誌は売れた。気がつくと減っているので、さらに追加の注文をした。切らすと店長から怒られるからだ。

何度目かに電話注文したときに、「もう品切れです」と言われ、雑誌は売り切れて、特等席は別の本に変わった。

それからしばらくして、その出版社から電話があった。その雑誌が、休刊になるので、挨拶に伺いたいというのだ。

もちろん、小さな本屋に、わざわざ出版社の人が休刊の挨拶に来ることなど、初めてだ。
では、なぜ挨拶にくるのか?

「おかげさまで、東京ウォーキング何年何月号は売り切れました。ほとんどをこの店で売っていただきました。お礼に伺いたいのです」

記憶が定かではないが、出版社の人はそう言ったと思う。そして実際に二人、店にきて、店長に頭を下げていた。
B区でたった一軒、その小さな店だけで、売り切ったのだと。

書店員の圧倒的な理想像を、そこに見た気がした。店長はかっこ良かった。見かけはそうではないし、性格は最低と思っていたが、その姿はかっこ良かった。休刊になるような売れない雑誌なのに、その店でその号だけは売り切ったということ、B区にある他の書店は気がつかなかった、その雑誌の魅力を理解し、追加に追加を重ねて売ったということ。ああ、これが書店員だよな、と思った。

日本中どこにいっても、その雑誌は売れていなかったはずだ。だから、全国の売れ筋情報なんかを当てにしていたら、こんなことは無理だ。マーケティングによる統計データでも発見できない。

他では売れないが、B区の書店なら売れると判断したということ、つまり、この書店しか売る店はないということに気がついたこと、そして、雑誌を追加してまで売り続けようと思うこと、それは、その店長のセンスの問題だった。結果として、出版社がわざわざお礼を言いにくるほどの感謝をされる。なんてカッコいいんだと私は思った。

さらにいうならば、その店でしか売れないもの発見するためには、当然、そこに訪れるお客を理解していなくてはならない。その本の価値を知り、そしてそれを必要としたり魅力を感じるお客がいるということを知っていないなければできない。全国で売れているものが、その店で売れるとは限らない。逆も真だ。

大げさだが、私は、小売りというのがどんな仕事なのか、そのときに理解できたような気がした。うまく言えないが、あえていうなら、あるモノを、それを必要としている人に届けることだ。

そして、それをうまくやれると、カッコいいのだということにも、気がついたのだ。

小山内恵美子「おっぱい貝」文學界4月号

小山内恵美子「おっぱい貝」文學界4月号

 第42回九州芸術祭文学賞 最優秀作
ということで、文學界4月号に載っていた「おっぱい貝」を読んだ。

 最近、口にするのが、恥ずかしいタイトルの小説が多いような気がするが、目立つけど、いいこととは思えない。なにせ、道ばたとか電車のなかで「あのさあ、「おっぱい貝」を読んだんだけどー、結構よかったよ」などということは、果てしなく言いづらいからだ。

 とはいえ、この作品はタイトルにも意味があるので一概にだめとは言えないところではある。

 選考委員のコメントも載っており、五木寛之氏のいうことがいちいち私と同じ意見で、何とも言えないのだが、一文に、複数の意味を込めた重層的な文章で、まず、そこに1ページ目からやられた。最後に、大きな貝が登場するところも、なんともいえない奇妙な感覚があり、これは小説なんだと、納得させられてしまった。


引用してみる;
「奥さんの手のなかで、身が貝殻からとりはずされていくのを見ていたら、自分から赤ちゃんが引きはがされていくようなイメージがとつぜん頭に浮かんできて、すべて食べものは残酷にも殺された死骸なんだということが胸にせまってきた」

 この前には、とても珍しくておいしい貝だということ、後には、食べる場面がでてくる。しかし、ここで引用した文章は、あきらかに、美味しい食べ物に対する礼賛ではない。むしろ、食べることが罪であり、無数の死、犠牲の上に生命がなりたっていることを語っている。しかし、かといって、それを否定しているわけでもない。「赤ちゃんが引きはがされる」という言葉には、食べるために生命が殺される、という意味と同時に、赤ちゃんが母親のお腹から離れる=生まれるという意味も含まれているのだ。

 「人間の頭のような大きさ」だとか、道路工事現場の若い作業員の下半身だとか、いろいろと意味深で、ストーリーに直接関係ない場面でも、何らかの意図があるように思わせる。これは確かに、才能のある書き手だと思った。

 これは芥川候補でもおかしくない。

 次作も読みたいが、さてどこに掲載されるのだろう。文學界の方、書かせてくださいな。




プリンス「サイン・オブ・ザ・タイムス」1987年
スペースシャトル チャレンジャー号 爆発 1986年
チェルノブイリ原発事故 1986年
佐野元春「警告どおり 計画どおり」1988年

今日は、2012年3月14日。