経済について

つい先日、だけど、もう昔のことのように思えるが、Facebookが株式公開された。詳しくは興味がないので、知らないが、高値をつけ、そして公開と同時に値下がりしたのだという。

IT企業が、さして資産がないにも関わらず、お金を集めることができるのはなぜか。という問いには、いくつもの応えがある。一つは未来がある。物理的な資産はないが、大勢の人が使っている、有名だ、という資産がある。などなど。

でも、1番の理由は、お金が余っているからだ、と私は思う(し、また他の人もそういっている)。

余っている、という言い方は、ちょっと分かりにくい。使い道がないお金がたくさんある。ともいえる。もう少し、言い換えると、こうすれば儲かるという話がない、ということだ。

たとえ話をしよう。
ここに1万人の町があるとする。ここにはスーパーマーケットがない。隣町にはあるので、みんなそこへ買いにいっている。この町に、スーパーマーケットを建てれば、確実に儲かることは、誰の目にも明らかだ。そして、この町の住人達もまた、それを望んでいる。遠くまで買い出しにいかなくてすむからだ。

だからスーパーを建てるといえば、お金が集まる。1万人の町に1件しかスーパーがないとなれば、どれくらいの売り上げか推測するのも簡単だ。そうして、スーパーが建ち、儲けが出る。お金を出した人には、何年かすれば、お金が増えて戻ってくる。

お金を出した人だけが、喜ぶわけではない。町の住人たちも喜ぶ。便利になり、豊かになり、そして、スーパーの雇用も生み出される。雇用が生まれるということは、お金がこの町に流れこむということでもある。

スーパーをつくって儲けたのは、お金持ちだろうか。そうとも限らない。町の人たちは、当座必要ではないお金を銀行に預ける。銀行は、町の人々から預かった、まとまったお金を、スーパーに投資する。スーパーの利益は、銀行の利益となり、利息となって町の人に戻っていく。そして、利息によって増えたお金は、また銀行に集まり、銀行は新たなスーパーを建てる。するとまた儲かる。

このような幸福な状況が、70年代までの日本だった。スーパーだけでなく、電化製品とか、車とか、住宅とか、そういったものが、そうだったのだ。儲け話に困ることは、なかった(細かくみればそうではないでしょうが)。

80年代になると、スーパーのない町がなくなった。全国で儲けがでそうなところには、もうすでにスーパーが立っていた。そこで2店目、3店目を作りはじめた。銀行にはお金があったので、建てること自体は雑作のないことだった。

しかし、さすがに4店目、5店目を作るわけにはいかない、とだれもが思いはじめた。しかし、いままでに儲けたお金はある。銀行は利息を払わなくてはいけない。では、どこで儲けるか? お金行き場を失って、株と不動産に集中した。80年代後半、こうしてバブルが始まった。

Facebookだけでなく、Yahooも Googleも、株式公開時に話題になった。行き場を失ったお金が、わらをもすがる気持ちで(というと言い過ぎか)、人気IT企業に集中したのだ。ようするにバブルなわけだ。

「さすがに4店目、5店目を作るわけにはいかない」と思いながらも、建てないわけにもいかない、という状況もあった。建てないと建設会社が儲からないし、スーパーも利益が頭打ちだ。仕方がないので、出店する。しかし、そこには既にライバルが群居している。その町の人口は、かつての1万人から、少し増えたが、少子化もあって減りはじめている。ただでさえ、利益の確保が難しいところに、新たな参入するとなれば、どのような手が考えられるか。

効率化することだ。

効率化とはなにか。経費を削減することである。
既存のライバルは、10人でやっている仕事を、新規店は3人でこなすようにする。すると、利益は増える。
既存のライバルは、豪華な建物に、贅沢な内装をしているが、こちらは見た目はともかく安い建材を使い、工期も短くする。すると、利益は増える。
既存のライバルは、ちょっとしか売れないものも、沢山、在庫しているが、新規店は、売れるものだけを大量に置く。すると、利益は増える。

そして、既存のライバルは消え、もっと効率化した新規のライバルが現れる。

しかし、町の人々はどうだろう。雇用は減り、日本中どこにいっても同じ風景と、同じ商品ばかりになっていく。
銀行は利益を上げられずに、利息はなくなってしまった。むしろ、お金を引き出すと手数料をとられてしまう。

お金は、あるところにはある。なぜなら、お金の総量は一定だからだ(基本的に)。
貧乏な人が増えたということは、お金持ちが増えたか、一部のお金持ちがさらに沢山お金を持っているかだ。
なぜ、そうなっているのか。

金は天下の回りものという。社会を人間に例えるなら、お金とは血液だ。どこかに溜まっているのは、不健康の証しである。

じゃあどうするんだ。
とにかく、無理矢理にでも、流れるようにするしかない。具体的にというと、それはまだ考え中なのでした。