最近、名文に対して敏感になっている。敏感という表現が適切かどうか、微妙に違和感があるのだけれど、ブログなどであふれる、変にくだけた、なれなれしい言葉遣いばかり読んでいると、いわゆる昔ながらの文章を書いているような人に出会うと、はっとして、ああ、上手いなあ上手いなあ、と思ってしまう。

たとえば、今月号(5月号)の「すばる」の巻頭エッセイ。冒頭の書き出しから、曲の紹介までの接続が、とんでもなくすばらしい。

「父につれられて、私たち一家が東京から北海道小樽に引越したのは夏の終わり、八月末のことだった。青函連絡船で海を渡り、函館で汽車にのりかえて小樽に近づくにつれて、両側の山々には燃えるように真赤に紅葉した木々がどんどん増えてきた。汽車の窓からそんな光景を初めてみた私は「山が燃えてる」と叫んで兄たちに笑われたものだ。私は正直こわかったのである」

「雪を踏みつけているうち、ぐっと足を下に突っこんだりもする。雪の下は田んぼかなにかだったのだろう。砕け散る雪氷の下に水の流れているのが見え、キラッと光る。その流れを良く見ようと思って腰をかがめたら、その下に若草の小さな緑の塊がみつかった。それは、まるで小さな目で私の方をじっと見詰めて来るみたいに光った」

「雪の下の割れ目から、じっとこちらを見つめていた緑の草の小さな目。それとネコヤナギ。何十年もたった今でも、はっきり覚えている。一生忘れないだろう。この日、これを通じて、私の中で何かが目覚めたのである」

吉田秀和「雪のなかの日」より)

 そうして、小樽の思い出話から、シューマンの「初緑」という曲へつながる。「この歌をはじめて知った時、私はあの時の目覚めの感覚に非常に近いもの、ほとんどそれに照応する音楽にであったと直感した」

 うまいなあ。

 エッセイだけど、冒頭の部分だけ取り出せば、小説としても十分いける。というか相当いい話になりそうだ。
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 先日読んだ、「曾根崎心中」の本の最初の人形浄瑠璃の歴史についての文章も上手かった。

上方文化講座 曾根崎心中

上方文化講座 曾根崎心中

 で、芥川龍之介の「歯車」を読む。すごい。

 まず、この「歯車」を、作者が誰だか知らないとして、読んだとしたら、自殺前の悲壮な心の訴え、というような読み方をしないはずだ。
 そして、私は、そのように読み、これはとても巧みに作られた小説だと感じた。うまい。うますぎる。ある意味、読者を騙そうとすらしているのではないか、とも思える。「こういうことで自殺することになりました」というように読ませるように。

 でも、それにしては、作為が目立つ。「レエン・コート」の扱いは、あまりにも見事で、絶対に狙っていると思う。あるいは、スリッパと鼠もそうだ。妄想なのか現実なのか、どちらともとれるように書いている。

 神経を患っているから、そう書いてしまった。この小説はかなり真実に近い、というようについつい読んでしまうけれど、これほど見事な展開は、現実にはあり得ないはずだ。解説をよめば、タイトルを、佐藤春夫のアドバイスで「歯車」に変えたという。必死で書き留めて、そのまま死んだわけではなく、ひとつの作品として書いたのだと、考えるほうが正しいのではないか。

 芥川龍之介は教科書にも載り、芥川賞もあり、若くして自殺したりして、しかも「漠然とした不安」という名句を残し、とても有名すぎて、むしろ作品そのもの評価が不当に扱われているような気がする。(というか、私がそうだった)

 でも、この「歯車」は、とにかく作者が誰であれ、サリンジャーの「バナナフィッシュ」とか、カフカの短編とかに匹敵する、とんでもない傑作であることに間違いない。最後に、妻があわてて梯子をのぼる、有名なエピソードも、事実ではなく、フィクションだと思って読んだ。それが、この作品に対する正当な読み方だし、芥川自身もそう読んでほしかったのではないか、と私は思っている。

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

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