霧雨から雷雨へ

 その日は、朝から雨が降っていた。しとしとと、降ったりやんだりする、霧雨だった。濡れると寒いから、レインジャケットを着たけれど、歩けば暑くなってきて、前を開けたり、脱いだり、やっぱり着たりを繰り返した。
 その子は、言葉がうまく話せなくて、僕たちは、いろいろ想像し、試しては失敗し、ちょうどいいところはどこなのかを探らなくてはならなかった。
 雨は、一番最後のロープウェイ乗り場のところで、土砂降りの雨になった。黒い雨雲が、こちらに向ってやってくるのが、見えた。目の前に雨のカーテンがあり、それがすーっと僕たちの頭の上を通り過ぎた。すると霧のような雨は、地面に水の塊を叩きつける雨になった。
 僕たちは、ロープウェイ乗り場で雨宿りをした。ロープウェイは荒天と落雷の危険から、一時停止になった。その子は、ロープェイ乗り場の看板のタヌキを何度も指差して、「ヌウ、ヌウ」といった。僕はその子に笑いかけて、「そうだね、たぬきだね」と何度も答えた。何度か目に、僕は「ほらたぬきってことわかってるんですよ」といいながら、後ろを振り向いた。けれども、だれもがそれぞれのおしゃべりに夢中で、僕の言葉は宙に浮いたまま消えていった。
 大半の人間は、この子がタヌキを識別し、それを言語化できると考えていなかった。そんな能力がこの子に備わっているとは思いもしていなかった。僕はそうじゃないと知っていた。あるいは僕だけがそうじゃないと思っていたのかもしれない。
 山を歩くという短い旅は、もう終わりだった。朝から歩き通しで、だれもが疲れていた。
「ギィ、ギィ」「そうだね、うさぎだね」「ギィ、ギィ」「そうだね、うさぎだね」「ギィ、ギィ」「そうだね、うさぎだね」
 この旅は終わりだったけれど、もちろん、その子の人生も、僕の人生も終わりではなかった。まっすぐ歩くのもままならない、その子が何キロも山道を歩いたことに、その手助けをした僕たちに、多くの人が賞賛を送った。それは、確かに一つの達成だった。けれども、まったく小さな達成だった。僕は確かにうれしかった。なんとか最後までともに歩き続けよう。それが目的だった。いま、その目的が達成された。うれしくないわけがなかった。それでも、その子の人生も、僕の人生も終わりではなく、そして僕はその子とともに歩くことはもうないだろうということを知っていた。
 さようなら、といってもわかるのかどうかわからなかった。泣いたり、喜んだりしたけれど、幸せとか不幸せとかがわかっているのかどうかは、わからなかった。わかるにしても、わからないにしても、いずれにせよ、僕の寂しさは消えそうになかった。