なんだか知らないが、いつになく文芸誌の小説が読めている。

まずは、群像2月号 朝比奈あすか「クロスロード」
二人の女性、同い年で、一方は主婦、一方は単身で仕事している。この二人の視点で、その生活や高校時代の思い出などが交互に語られ、途中で二人はちょっとだけであう。だから「クロスロード」というタイトルなのだろう。面白いけれども、二人の女性がいました、以上の感想がでてこない。終わり方が、それぞれがそれぞれでこれからも生きていきます、おわりって感じだからだ。

実は、そのあと、羽田圭介「ミート・ザ・ビート」を読んだのだが、こちらもまた終わり方が、みんなこうして生きていくんだ、おわりって感じで、読後の感想がほとんど同じなのだ。

別にこの2作品が似ているということをいいたいわけじゃなくて、純文系文芸誌の短編って、このパターンがすごく多いのだ。

 芥川賞候補を読んでみようと思い立ち(なにしろ、純文学文芸誌のほとんどを1年購読しつづけたため、今回の候補作は全部手元にあるのだから)、冒頭を読んで、読みやすそうなものから読んでいる。

 実は、松尾スズキ「老人賭博」も読んだ。

老人賭博

老人賭博

 さすがに演劇畑で名も売れているだけに、物語が構築されていて、最後にカタルシスのある見せ場が用意され、ちゃんと意外なところに着地して終わる。ああ、これで物語は終わった、という感覚が残る。
 ギャグもあり面白いし、ところどころ、ふっと高尚なことが出てくる「偽善こそ世の中を良くする」とか「賭博するのは神への挑戦」とか。それなりによく出来たエンターテイメントだと思う。でも、助っ人がさっと出てきたり、ピストルで解決したりして、ご都合主義がたくさんあり、荒唐無稽の感は拭えない。それを許せるなら楽しめる。マンガの影響がたくさんあるような気がする。というわけで、これが純文学です、芥川賞です、というのとはちょっと違うんじゃないと思ったりもする。

 そういう意味では、「ミート・ザ・ビート」は、地方都市にすむ若い男のやるせなさ、希望のなさが伝わってきて、非常に共感できる。でも、それは私がそういう都市に住んでいたからそう思うのかもしれない。ミート・ザ・ビート」群像1月号の創作合評にも取り上げられているが、黒井千次はこの小説の良さがわからないようだからだ。ホストをしていて女も金もあるがレースに命をかける男、彼女もいないのに、そのために車内をごてごてと飾り付ける男、普通の家に住んでいるの売春している女の子、土木作業のアルバイトでその女の子を買う金を必死で貯める男。でも、地方にすんでいて、どこにもいけない、微妙な絶望感がでていて、これはすばらしい作品だと思う。ただ、おわりにみんなで江ノ島にいくのだが、たどり着く前に終わってしまう。昔の青春小説なら、「がんばるよ、おれ」みたいなことを海に叫んで終わったのかもしれないが、そういうことはなく終わる。創作合評でやはり黒井千次が「今の日本の日常を描いた」というような発言に対し「でもそれを書いてできあがった作品を読んだ人が、なるほど今はこうなっているのかと、新聞の解説を読むみたいな感じでうなずくのでは仕方がないのであって、小説である以上は、何かの意味でちょっと脅かすというのか、動かすというのか、そういうところがないとつまらない」と批判しているように、もうすこし物語としてなにかほしいとは、思う。(とても共感できる話ではあったので新聞の解説のようだとは私は思わないが)

 「ミート・ザ・ビート」もそれから「クロスロード」も、登場人物の背景を描いただけで終わっていて、物語がない。これからこの人たちがどんな体験をしていくのか、そういうものがない。物語を語らないのが純文学、とは私は思わない。ホストをしている男と、売春をしている女の子と、それに入れあげる男、そして語り手で、恋愛の三角(四角)関係が出来ているのに、微妙な関係、望みのない生活、若くてふわふわしている状況だけで終わってしまうのは、もったいないし、つづきが読みたいものだと思った。

 というわけで、朝比奈あすかさんともども、これからちょっと注目。
 芥川賞候補の2作どちらも面白いが、どちらが芥川賞をとっても、私は納得がいかないだろうという結論でした。
 ちなみに群像2月号は私には読むところがたくさんあって、うれしかったですね。あと、すばるもかなり読めました。