貧乏を知っていること

このあいだ、年上のパートのひとと、子供の時の話をする。というか、貧乏自慢みたいな話だ。
「シャワーなんかなかった」というと「風呂がなかった」となり、「ああ、銭湯へいってました」みたいな。
でも、そこから一転、「いまのお風呂、しゃべるんですよ」なんて話になる。皆さんのお風呂、しゃべりますか?

ボタンを押すだけで、お湯をちゃんと張ってくれて、ボタンを押したら『湯ハリします!」といい、終わると「お風呂がわきました」という。ついた時は、わーい、と思ったけど、今では、聞いてもいない。

で、そういえば、お風呂入れて、しょっちゅうあふれさせてましたよ、なんて話をする。時計をちらちら見て、いつ止めにいくか、ハラハラというか、ジリジリというか、待っていて、うっかりTVとかに夢中になっていると、「ざざざざー」ってあふれているみたいな。

そういうこと、今の子供たちって経験しないんですよね。かわいそうな気がするのはなぜでしょうね。

あかぎれ」もそうで、私は小学校に上がるか上がらないかぐらいのとき、かゆくて痛くて、がさがさになった手の記憶があるのですが、自分の子供たちにしても、周囲の子供たちも、そんな手をしている子はいません。「あれは母親がクリームを塗ってくれなかったからですよ。愛情がないんです」というような意見を聞いたけど、そんなことはないんじゃないかと思う。私はクリームを塗ってもらったけど、ガサガサだったしね。

「子供の時より、ずっと豊かになりましたよね」と聞くと、「ほんと豊かになった」と同意が得られた。40歳近辺の人の話だ。
 これが今、20代の人になると、逆転するだろうと思う。「子供の時の方が豊かだったよね」
 たとえば、新車が売れないという。不況もあるし、少子化もある。でも昔ほどのステイタスがなく、むしろ実用品になってしまった。そして、それも買えない人が増えてきている。昔は、頑張って働いて、それで車買って、豊かな生活ができる、ということが現実としてあった。しかし、今はどうだろう。べつにインターネットがあるし、車なんかなくてもいいんじゃん。と思う。この私がそう思うのだ。若い人だって、多くの人はそうだろう。嫌なこと我慢して働いても、ほしいものなんかないし。

 でも、車にのって、これからいいとこにいってくるぜ、っていうのが通り過ぎたら、車なんていらないから、お金を稼がなくていい、と言っていることが、なんとなくみじめに思えてくるものだ。

 とはいうものの、もう頑張ったからとして、社会が豊かになっていくことはない。

 私は、もうそういうこととほとんど折り合いがついていると自分では思っている。どこまでお金を使わないでいられるか、結構いいところまでいっていると思う。本を買うお金を節約すれば、食費しかかからないような生活はできる。
 でも、子供たちはどうだろう。いま、こうして豊かな時代にあり、これから、縮小していく経済のなかで、生き抜いていけるように、変に差別意識など持たずに生きてゆけるだろうか。

 シャワーなんてものが当たり前でなく、水を張って、お風呂をわかし、湯船のお湯を使って頭を洗う。あるいは銭湯へ行く。毎日ではない。とか。

 いま問題になっている、CO2削減なんて、みんながそういう生活レベルにすれば、すぐ解決する。もちろん、そんなことはすぐにはできない。

 私は子供たちに、お金がなくても、ものがなくても、他人を僻んだりせず、楽しく暮らせるようになってほしいと思っている。もちろん、その願いを叶えるような努力が親として足りてはいない。むしろ、どうすればいいのか、と考えても答えが出ていない。