今、本が売られなくなったら、どうなるだろう。出版社も書店もつぶれ、印刷所も取次もなくなる。
 それでも、困るだろうか。
 読むものには、おそらく困らない。インターネットがある。
 図書館もある。図書館はきっと今よりもずっと価値のある存在になるだろう。なにしろ、本が読めるのは、そこか、古本屋しかないわけだから。古本の価格はきっと上がるだろう。ネット上で言及されたり、引用されるような本の価格は、おそらく目が飛び出るほどの値段がつく。いまでも絶版だけど、一部で有名な本は高値がついている。ただし、そういう状況になっても、値段が安く売れない古本というのものも、あるだろう。
 違法コピーはむしろ盛況になるだろう。コピーした画像がアングラに出回り、それでも読もうとする人も沢山いるだろう。
 新しい本は書かれないだろうか? もちろんそんなことはないだろう。流通にのらないだけで、書く人はいなくなることはない。多くの人が書き、そのほとんどがほとんど読まれることなく、ネット上にあり続けることになるだろう。もちろん、書いても、まずお金にはならないだろう。それでも、書く人が大量にいることは、今のブログを見ればわかる。
 自分で印刷製本して販売するということもおこなわれるだろう。これもやっている人は沢山いる。儲けは基本的に関係ない。
 そういった中から、その本がほしい、という本と読者も現れるだろう。お金をだしてもいいから、ほしい、と。
 内容は、ネットで読めばいいのだから、紙に印刷する必要はないはずだが、それでも本にしたいという人はいるのではないか。
 あるいは、このネット上の文章を本にしてくれと頼むとやってくれるビジネスもできるかもしれない。
 そうなれば、いわば、今の雑貨屋やセレクトショップのように、本を売る店が出てきてもおかしくはない。高価でおしゃれな装丁の宝物のような本を扱う店もあれば、安くて小さくて手軽な本を売る店もあるだろう。
 本を選ぶセンス、装丁のセンスなどでは、カリスマ的な人物も出てくるはずだ。その人物が選んだ本、選んだデザイナーの装丁、紙といったものが、欲しいという人がたくさんいて、誰が書いた本かというよりも、その人物が認めた人が書いたのだから欲しいというような。
 私は、電車に乗り、あるいは飛行機にまで乗って、その人の店に行く。文章が読みたければネットがある。本が欲しければ通販で買える。
 けれども、その店にならぶ本たち全体を眺めること、その店全体のもつなにか説明のできない魅力を味わうためには、そこに直接出向くしかない。
 だから、私はそこへ高い電車賃と休日を使ってでも、そこに行く。

 そんな風になるのでは、ないだろうか。