映画2本とプラトン

この2週間ほどで、DVDを借りて2本映画を見た。

「あの夏の子供たち」

あの夏の子供たち [DVD]

あの夏の子供たち [DVD]

パリ20区、僕たちのクラス

パリ20区、僕たちのクラス [DVD]

パリ20区、僕たちのクラス [DVD]

内容は、検索していただくとして、どちらも、まるで日本の純文学のように、日常を切り取っただけで、ドラマチックな展開とか、あっと驚く解決とか、ジーンと人間のやさしさに感動するとか、とくにありません、これからも彼らの日常は続きます。マル。みたいな映画です。ドキュメンタリーっぽく撮っているし、内容も伏線っぽいことがあったりするのに、結局最後まで全然関係ないままだったりして、ドラマではなく、極めて日常っぽい感じです。こういうのはやりなんでしょうか。(どちらもDVDが紀伊国屋だからかも)

しかし、演技が演技くさく感じないなあと感心。子役が見事です。これも、どちらの映画にも感じました。

ちなみに、「パリ20区」は子どもたちとともに観ましたが、それなりに興味深かったようです。でも内容自体は、小学生向けとは思えません。中学生ならいいですが。

さて、その「パリ20区」で、生徒の一人が読んだと意味深にいう本を、私もかお先生も読んだことがなかったので、買ってみました。

プラトン「国家」です。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

で、いま上巻の最初の方を読んでいるのですが、これが面白い。訳も新しいと思います。なんと、ソクラテスは自分のことを「ぼく」と言ってますから。「ぼく」なんていうから、小生意気にへりくつをこねる小僧に思えてしかたありません。しかし、正義について、平易に対話、議論しながら考える形式は、「国家」などという堅苦しいタイトルからは想像つかないぐらい楽しいものです。2ちゃんとかで議論していることと、ほとんど同じようなことが、書かれてあります。さすが、古典中の古典です。中学生ぐらいになったら、子どもたちに薦めようと、まだ読み終わっていないのに、思いめぐらせたりしております。

(訳が新しいと書きましたが、1979年初版でした。すばらしいです。今読んでも違和感ありません)

少し引用してみます。

「してみると、およそ知識とは、どんな知識でも、けっして強い者の利益になる事柄を考えて、それを命じるのではなく、弱い者の、つまり自分が支配する相手の利益になる事柄を考えて、これを命じるのだ」
 この点についても彼(引用者注:トラシュマコス)は、最後にはとうとううなづいたものの、懸命に抵抗を試みようとした。しかしとにかく同意を与えてくれたので、ぼくは議論をつづけた。
「だからまた、およそどんな医者でも、彼が医者であるかぎりにおいては、医者の利益になることを考えてそれを命じるのではなく、病人の利益になる事柄を考えてめいれいするのではないかね?(中略)」

「そしてまた、トラシュマコス」とぼくは言った、「一般にどのような種類の支配的地位にある者でも、いやしくも支配者であるかぎりは、けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事が働きかける対象であるものの利益になる事柄をこそ、考察し命令するのだ。そしてその言行のすべてにおいて、彼の目は、自分の仕事の対象である被支配者に向けられ、その対象にとって利益になること、適することのほうに、向けられているのだ」

政治家のみなさん、社長会長のみなさん、読んでますか、プラトン「国家」 「もしドラ」もいいけど、こっちもいいですよ。